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終戦の日に想いを寄せて

 

映画「あゝひめゆりの塔」を見ました。 

あゝひめゆりの塔

あゝひめゆりの塔

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1968年製作の映画です。Amazonプライム会員であれば、Amazonプライムビデオで無料で観ることができます。 

 

私がひめゆり学徒隊のことを知ったのは、小学校6年生の頃だったと思います。

 

当時は小学校での平和学習も盛んで、修学旅行も広島や長崎の原爆記念館などに行く学校が多かったです。

 

そんな中、夏休みに「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を読み、読書感想文を書きました。後日、先生の指名で読書感想文の朗読をしました。 

 

今でもその読書感想文の一部を覚えています。

「私とそれほど年の変わらない、15歳から19歳の学生が戦場に行き…」

 

ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒・教師で構成され、看護要員として戦場に動員された女子学徒隊で、沖縄戦ではひめゆり学徒隊以外にも、なごらん学徒隊、でいご学徒隊など8つの女子学徒隊がありました。

 

ひめゆり学徒隊がその名前を広く知られているのは、動員された人数が240人(生徒222人、教員18人)と多かったこと、その半数以上の136人が沖縄戦で亡くなり、犠牲が大きかったことが理由であると言われています。

 

当時の学制では、大学教育は女子に開かれていませんでしたので、教員養成機関である師範学校女子部は、沖縄県の女子生徒が進学できる最高峰の学校でした。(一応その上に師範学校教員を養成する女子高等師範学校が全国に2校、東京と奈良にありました。現在の津田塾大学奈良女子大学です)

また、第一、第二と名前を振られる高等女学校は、第一高等女学校はその県のトップの学校であることが多く、卒業後は試験をうけて師範学校の本科に進学する生徒が多いのが実態でした。

 

そういった事情から、ひめゆり学徒隊の生存者は、その後教員になられた方が多く、戦争体験を言語化して伝えることに長けていたことも、ひめゆり学徒隊が広く知られた理由の一つだと思います。

 


第二次世界大戦末期の学制では、師範学校は、国民学校初等科(6年)、高等科(2年)を終えた14歳から入学することができ、予科3年間と本科2年間が在学期間となっていました。高等女学校は、国民学校初等科(6年)を終えた12歳で入学し、4年間の在学期間となっていました。すなわち高等女学校とはいうものの就学年齢は今の中学校と変わりません。

 

 

ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部の予科2年から本科2年までの女学生と、沖縄県立第一高等女学校の3・4年生を動員する方針が取られましたので、最年少は15歳(高等女学校3年生。学年が上がる直前の動員のため年齢が上がっています)ということになります。(一部、自宅が離島にあるため戦時中に帰省できずに上級生の動員に一緒に参加した師範学校女子部予科1年生(15歳)も含まれていました)。

 

今なら中学校3年生の学年です。まだまだ子どもです。その少女たちがほんの数週間の看護教育を受けただけで、戦場の病院に駆り出されたわけです。

 

沖縄戦は1945年3月26日から6月下旬の戦いです。

 

折しも今年、新型コロナウイルス感染症により、3月から5月まで、全国の学校が休校になりました。休校の間、中学3年から高校3年の女子生徒が、コロナウイルス感染症指定病院に急遽看護師として駆り出されたと想像すると、当時の学徒動員の異常さが実感できます。(しかも病院は戦場)

 

 

小学生でひめゆり学徒隊を知った後、本を読んだり映画を見たりで知識を深めていきました。沖縄県ひめゆり平和祈念資料館も2度訪れました。特に第四展示室では、荘厳な気持ちになります。

ひめゆりの塔 学徒隊長の手記 第三版

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ひめゆりの塔(1995)

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戦争を深く語る言葉は私にはありませんが、それでも、原爆が投下された日や終戦の日には、本や映画で戦争があった事実に触れ、75年前の日本にたくさんの悲しみがあったことに想いを寄せたいと思います。

 

 

 

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